あの断片的な映像は何なのだろうか?
シュボ、シュボ・・とまるでフラッシュでも焚き付けたかの様に
一瞬の強い閃光と共に私の中で浮かんでは消える
全く見に覚えのない映像・・。
日頃から事ある毎に胡乱だと野次られる私ではあるが、
本当にアレは私が忘れてしまっているものなのだろうか?
だとしたら私は・・・。
破片の記憶...
はぁぁ・・と大仰に私は嘆息をつく。
だが、別に態とでは無いのだ。この頃身体が怠く、頭も心なしか重く感じられる。
いつものことだろうと言ってしまえば、それもそうなのだが・・何故だろうか?
少しだけ違和感を感じる。
だが、そんな事を口にしてしまえば・・あの偏屈な友人
(本人は知人だと言い放つであろうが・・)に何を言われるか堪ったものではない。
きっと、今の私の生活規則が為ってないと言う事から始まり・・果ては学生時代の頃
遡って私とは全くもって関係ないと思われる歴史上の人物までもが
引っ張り出される事になりかねないだろう。
いつもの私であれば、それに反論をしながらも納得させられていく自分を
どこかで愉しめた事だろう。だが、今の私にはどうやら・・それすらの余裕もないらしかった。
ならば、態々外出などせずに家で大人しく布団を被り寝ているべきなのであるが、
私の足はだらだらと続く夕闇の迫る坂を延々と上り続けていた。
どうしても今日中に京極堂に会っておきたかったのだ・・。
理由など無かった。
「・・大体、何で態々来たりしたんだね。見るからに気怠るそうに見えるじゃないか。
僕じゃなくたって、誰が見ようと一目瞭然とはこの事じゃないか・・。」
いつもの如し、総ての不幸を背負ったかのような仏頂面に厄介ごとを運んできた
忌まわしいものでも見るかの様な目つきで、私よりも深い溜息をついてみせた。
「ごめん・・。」
そう呟くのが精一杯で、私は済まなそうに眉を寄せた。
彼の座敷に上がりこんで、彼是一時間近くは経っていたのだろうか?
漸く京極堂は口を閉ざした。
「・・で、態々そんな状態の君が僕に逢いに来た理由はあるのかね?」
もう彼の視線は手元に書物に落とされている。
会いに来た理由・・。これを訪ねられると至極困るのだ。どう言えば良いのか、
分からずに口篭もる私に、京極堂の視線が併せられる。
何かを見透かされている様で居心地の悪さを感じた。
「まだ続いているのか?この前に話してた・・断片的な映像は。」
彼の口調には何故だか、苦々しい感じが込められている気がした。
じろり・・と視線で促され、私は慌てて言葉を繋ぐ。
「あ・・いや・・その・・。うん・・そ、そうなんだ・・。」
しどろもどろとする私に京極堂は―そうか。と小さく呟いた。何がそうか。なのだろうか?
スッと音も無く彼は立ち上がると、ゆっくりと私の方へと近付いてくる。
何事かと思いながら、その動きを目で追っていた私に彼は、手を差し伸べた。
「少し外に出よう。ついて来たまえ。」
彼の手を支えに立ち上がると、その手は離された。
私が京極堂を訪ねた時には、もう既に空へ夕闇へと変わって行きつつあったのだ。
だから、もう空にはすっかりと白い月が昇っていた。
昼の蒸し暑さとは打って変わり、外の空気は柔らかな涼しさを含んでいた。
「あぁ・・気持ちが良いね。」
私は素直に呟くと、空を仰ぎ見る。
「フン・・。胡乱な君の事だ。大方、一人で部屋の中でグルグルと自己意識の中を
彷徨っていたんだろう。・・いいかい、人には気分転換と言うものが必要なんだ。」
彼にしては珍しく、優しさが見て取れた。・・否、この男は何時だって
その外見や態度とは裏腹に
私を救い続けてきてくれたではないか。そう・・分かり難いが優しい男なのだ。
京極堂が優しい男・・。そんな考えに、私が一人で笑いを思わず漏らすと
耳聡く彼は、その声を聞きつけた。
「何が可笑しいんだい?」
眉間に今も濃く残る皺に、片方の眉がクイっと上がる。
「え・・あ・・・」
どうにかはぐらかす事は出来ないかと、私の視線は宙を右往左往する。
「あ・・。」
そして、私の視線が良いものを捕らえた。
「これを君は知っているかい?」
何処と無く得意気な声が私から漏れる。指先に触れる消え入りそうな白い花弁。
明日の朝には花を咲かせるのだろう。
大学時代、植物学を専攻していた私は少しだけ自信があったのかもしれない。
「知らないな。教えてくれるかい、関口先生。」
知ってる癖に揶揄を含んだ口調で彼は振り返る。
「芍薬だよ。古来、中国から渡来してきた植物でね・・・ほら言うじゃないか。
立てば芍薬 座れば牡丹 歩く姿は百合の花・・てね。美人の喩えの常套句だよ。」
尚も饒舌に話す私に京極堂は珍しく大人しくしている。
珍しく私の話に耳を傾けていると言った具合だった。
「根にはペオニフロリンやアルビコロリンという成分が含まれてて古来より
薬剤として用いられていたんだ・・これみたいな一重の白花が選用されててね。
主に筋肉の痙攣や腹痛、疼痛に遣われてて・・」
そこまで話すと、京極堂が口を開いた。
「君にしては上出来な位だよ・・関口先生。」
にやりと笑ったその顔に、私は自分が少し話し過ぎたかと後悔した。
俯き口を閉ざした私の耳に京極堂の声が滑り込んでくる。
なにか とてもだいじなことばを 憶いだしかけてゐたのに
視界の左すみで 白い芍薬の花が
急に耐え切れないやうに 無残な散りかたをしたので
ふり向いて
花びらといっしょに
そのまま ことばは 行ってしまった
いつも こんなふうに
だいじなものは 去ってゆく
愛だとか
うつくしい瞬間(とき)だとか
何の秘密も 明かさぬままに
さうして そこらぢゅうに
スパイがゐるので
わたしはまた 暗号をつくりはじめる
ことばたちの なきがらをかくして
「誰の詩だい・・・?」
京極堂が朗詠し終えると、私は顔を上げて尋ねた。
そんなことも知らないのかい?と言外に表情を浮かべると
「吉原幸子という人の【ふと】という名のものだよ。
僕はね・・この詩を初めて詠んだ時に君のことを思い浮かべたんだよ・・関口君。」
何だろう?何かがつくん・・と刺す痛みを憶えた。
確かにこの詩は・・私の心の中にストンと納まった気がした。
この感じはどこかでも。前に一度・・どこかでこの詩を聞いたことがあるのかもしれない。
ふと・・私は指先に触れる芍薬の花を見詰た。
明日の朝には、その零れんばかりの花弁を開き美しい花を咲かせるのだろう。
だが・・その後は、【無残な散りかた】が待つのだろうか?
ならば、いっそ。
私は指先にほんの少し力を込める。
あっさりと、それは・・ぼろりと私の手の中に落ちた。
京極堂は何も言わずに私の行動を見張っているようだった。
何でそんな事をしたのだろうか?
私は手を彼に向かって差し出した。その上には白い芍薬の花・・。
「君にあげるよ・・。」
無言のまま見詰ていた彼は苦々しい表情を濃く浮かべる。
「・・この花にも酷いことをするね、君は。」
差し出された掌から芍薬を拾い上げると、彼は唇を近づける。まるで口接けるかの様に・・。
この花にも・・酷いことをするね。彼の言葉が頭の中で繰り返される。
なら他にも私は酷いことをしたのだろうか・・?
左のかたすみで・・急に耐え切れないやうに・・
(それは、ゆっくりと消えて逝く・・。)
無残な散りかたをしたので・・
(その先を知りつつも尚・・)
ふり向いて
(君は手を差し伸べるのかな?)
花びらといっしょに
(喩え、僕が忘れても・・)
そのまま ことばは 行ってしまった
(君はソレを留めて・・黙するのかな?)
いつも こんなふうに 去ってゆく・・だいじなものは
(そうやって、いつもそんなふうに ・・君は。)
シュボ、シュボ・・と瞬く記憶。焚き付けられたフラッシュのように。
辛そうな彼の人の姿。
触れそうな指先は、力なくゆっくりと降ろされる。
見えずに、影になっていたその表情が
今やっと見えた。
何で忘れていたのだろうか。
あぁ・・・僕はまた君を傷つけてしまったんだね・・・。
「・・・中善寺。」
不意にバランスを失い私は空と地が反転した。
足場が脆く崩れたかのように、糸の切れた人形の如く。
意識が遠退いてゆく・・。
驚いたかの様に、僕の名を呼ぶ京極堂の声がした気がした。
あの記憶は何?
私に愛しげに触れようと伸ばされた・・
あの手の人物は・・・一体。
否・・君だったんだね。
中善寺・・。
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BGMby:遠来未来【夜蝶】