その脆い存在は、自分を守る為に・・
そして何よりもその男の傍にいる為に
総てを棄てたのだろうか・・?
その頑な男は、脆いと知っているソレを護る為に・・
そして何よりもその存在を自分の傍に留める為に
総てを引き受けたのだろうか・・?
どちらにしても・・・どうしようも無い馬鹿者ばっかりだ。
そして・・この僕もその一人なんだろう。
破片の記憶...
どうして戻って来てしまったんだろうか?いつもなら・・戻って来る事なんて在り得ないのに。
だけど・・きっと、あの感触が僕を引き戻したのだ。
ずっと聴こえていた。中善寺が僕を呼ぶ声。だけど、重く怠くなった心身は
容易には動いてくれそうも無かった。それなのに・・僕は戻ってきてしまった。
あの冷たい手に触れられて・・。
此の侭では、僕は一生きっと彼に依存して・・彼の重荷になるのではないだろうか。
もっと、もっと・・この内に秘めた感情が大きくなってしまう前に・・・
そう。
僕は消えるべきなんだ・・。
自分でも分かっていた。これが至極卑怯である事も。
だけど、狡い僕はそうするしかないんだ。
だから・・・。
無我夢中で飛び出して来たというのに、結局は僕は校舎の前に立ち尽くしていた。
ここが多分・・僕にとって特別な場所。
そっと、取り出したナイフは鈍い銀色の光を切先に宿らせている。
臆病者の僕に分かるのはこれくらいだ。ゆっくりと握り返すと刃を下に向けた。
「・・・呆れるな。」
唐突に掛かった声に全身の動きが封じられる。心臓は早鐘を打ち、鼓動は煩いくらいに脈打つ。
全身の神経が総て背後の存在に注がれる。
「やっと戻って来たかと思えば、今度はどうするつもりだい?手首でも掻き切って死ぬつもりかい?」
「・・戻って・・来たいなんて・・誰も言ってないだろ・・」
やっとの思いで絞り出された声は上擦って、上手く続きはしない。
中善寺の溜息が聞こえる。今にも僕の心臓は張り裂けそうだった。
「随分と手間を掛けさせてくれるじゃないか。僕が一体どれだけ君の事を
呼んだか分かっているのかい?」
「そ、それは・・。そ、それに、そんな事、頼んじゃいないよ・・。」
知っていた。中善寺が、彼がどんだけこんな僕の名を呼んでいてくれたのかも。
全部、全部聴こえていた。彼が僕の名を呼ぶ度に、何だかとっても胸の奥が
熱くなるのも感じていた。
だけど、僕は気付かない振りをした。だって、気がついてしまったら・・きっと彼は僕の名を
もう呼ばなくなってしまうから・・。
「・・狡いな。」
その一言に僕の体は硬直する。指先すら自由に動かせやしない。
「君は全部分かってるんだ。そうやって・・自ら仕掛けておきながら、自分からは動こうとはしない。
本当に狡い男だよ。」
ゆっくりと中善寺が近付いて来る足音がする。かさり・・かさり・・と枯葉を踏みしめて。
逃げ出したくなるのに、足は竦み動こうとはしない。・・いや、違う。僕は待っているのだ。
中善寺の言葉を。淡い期待と不安を一体にして・・それがどんな結果を生もうと
僕にとっては構わなかった。至福の枷か・・絶望の解放であっても。
「だけど、僕は・・・」
これ以上、君に依存する訳にはいかないんだ・・・。
僕は君の言うとおり狡い男だ・・本当に。
最後の最期になって迄、君に頼ってしまっている、結局依存しているんだ。
それなのに君は・・。
ゆっくりと背後から抱き締められる。温もりが悲しくなる位・・優しく伝わってくる。
あぁ、何で君はそんなにも優しいのだろう。いつの間にか、指先からナイフが
銀の軌跡を描き、零れ落ちる。硬質な高音が小さく響いた。
「・・いいよ。僕なら覚悟は出来ているさ。あとは君の言葉だけだ。
いいかい、言葉というのはね、
言ノ葉と書き・・元来、言霊の一種なんだ。君が望めば、それは・・・・成就するんだ。」
僅かに抱き締められたその腕に力が込められる。
中善寺は何を言っているのだろう・・。もしも、僕がソレを言ってしまったら
何が起こるのか分かっているのだろうか?・・否、彼に限って分かっていない事はないのだ。
本当に・・・どこまでも優しいのだろう。
「さぁ、いいたまえ。」
耳の奥が熱い。彼の言葉が滑りこんでくるかの様に・・。
「・・僕は・・・僕は・・・ぜ、全部・・忘れてしまいたいんだ・・・。」
「・・受けたまわったよ。」
それが何を意味するのかを彼は知っている。なのに、静かな口調でそう応えた。
最後に見たのは・・触れようと伸ばされた彼の手だった。
「・・ぼ、僕は・・・た・・・んだよ。」
その言葉は届いたんだろうか?酷く曖昧になっていく僕の視野と記憶は
彼を残して消えていった。
* * * * * * * * * * * * * * * * * * * *
「・・僕も同じだよ。君の言葉は届いていたんだ。」
あの時と同じ瞳で見上げてくる関口に僕は言葉を落とす。
「・・・良かった。」
そう呟く関口の髪に触れる。少し高めの体温が心地よく伝わってくる。
「だから、安心したまえ。」
「そうか・・。そうやって、また僕は君にばかり総てを押し付けて往くんだね。」
関口の瞳はもう僕の手に覆われて見えやしない。
「よく分かっているじゃないか。・・・だけど、それが君だ。構いやしないさ・・。」
「あぁ・・そうだね。中善寺・・また、いつか。」
ゆっくりと、僕の手の下で関口が瞳を閉じたのを感じられた。
「本当・・君って奴は。・・あぁ、まただね。」
視界を覆った関口に触れるだけの口接けをする。触れてすぐにその温もりから離れた。
「コラ!猿!!肩を揉め。紙の命令だ。」
「えぇ〜・・またですか?もう手が・・・」
「つべこべ言わずにやるんだ。僕は今・・非常に肩が凝っているのだからな。」
またいつもの如く、賑やかな声が集会場と化した京極堂の居間に響き渡る。
そして、これまたいつもの如く主は和綴じの本を手にして微動だにもしない。
「きょ、京極〜・・」
関口の情けない声に眉間の皺を更に深くして、盛大に溜息をついてみせる。
「いい加減にして下さい、榎さん・・。やるのは勝手だが、関口君がこのままでは
煩くって敵わない。大体、僕の家は・・」
「フン、僕は帰る!関君、今度会うまでにはもっと、マシな按摩師になっている事だ。
それでは猿按摩の名が泣くぞ。」
京極堂の話も早々に榎木津は立ち上がると、そのまま玄関に向かっていってしまった。
「君も君だ。自分の力でどうにかしようとは考えないのかね?あぁ・・そんな事を
君に言っても無駄だったね。自力で逃げられないのなら、そうなる前に回避する様に
少しは心がけたまえ。」
「あぁ・・うぅ・・その・・」
いつもの様に説教を垂れられて、関口は口篭もる。京極は再び読み止しの本へと
視線を戻した。
一人、取り残された関口は所在無さ気に周りを見渡し、
時計を見れば・・もう良い頃だ。ぼそぼそと口を開けば、しっかりと京極は聞いていたらしい。
「あぁ。僕もそろそろ失礼するよ。」
「そうかい。季節も変わって日が落ちるのが早くなったから気を付けて帰りたまえよ。」
珍しく京極堂が玄関まで見送りにやってきた。
言われた通り、玄関の外はもう大分・・日が落ちかけていた。
「足元に気をつけるんだよ。」
「あぁ、そうするよ。それじゃぁ〜ね。」
カラカラ・・と乾いた音を立てて戸を引く。
長い、長い影を引いて関口は坂を下りていく。
「まだそんな処にいられたんですか?あなたも早く帰った方がいいですよ。」
「・・本当、馬鹿だね・・お前達は。僕だったら・・絶対に離しはしないのに。」
玄関先、戸を引いて出て行った関口からは死角になる場所に榎木津は立っていた。
「いいんですよ、アレはアレで。」
関口の消えていった眩暈坂の方向を見詰て京極は呟いた。
「・・・ただ、僕は傍に居たかったんだ・・・か。」
ぽつりと呟く榎木津に京極が振り返る。
「神は何だってお見通しだ。・・・互いにそれを望んでいるっていうのに
皮肉だね・・。さぁ〜て、僕も帰るとするよ。」
長い、長い日が終わった。
それはまた再び彼の中で眠りにつく。
ばらばら・・になった、記憶の欠片たちは・・また悪戯に
浮き上がっては沈んで往くかもしれない。
それでも・・・忘れはしない。
僕たちは互いに・・・・
ただ、傍にいたかったんだ・・・。
離れることなんて出来やしない。
「僕も同じだよ。ただ・・・傍に居たかったんだよ、関口君。」
なにか とてもだいじなことばを 憶いだしかけてゐたのに
視界の左すみで 白い芍薬の花が
急に耐え切れないやうに 無残な散りかたをしたので
ふり向いて
花びらといっしょに
そのまま ことばは 行ってしまった
いつも こんなふうに
だいじなものは 去ってゆく
愛だとか
うつくしい瞬間(とき)だとか
何の秘密も 明かさぬままに
さうして そこらぢゅうに
スパイがゐるので
わたしはまた 暗号をつくりはじめる
ことばたちの なきがらをかくして
僕は君の言ノ葉の残骸と・・記憶の亡骸を抱いて・・
今日も君の傍に居続けよう・・・。
終わり。
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BGMby:遠来未来【夜蝶】