それは過ぎ去った刻・・。
それは・・切り取られた刻・・・。
バラバラにして・・隠した筈の欠片たち。
破片の記憶...
「なんで関は、こういう時ばかり・・あんな表情をするんだ・・。」
部屋の片隅に寄り添いながら、時折笑みを浮かべる関口の表情に榎木津が苦々しく呟いた。
「関口君は、今・・彼が一番善かった時期にいるのでしょう。」
「ハン!!何が一番善かった時期だ!学生時代だって、奴の状態は
変わってなどいないではないか。あの通り、猿は猿だっただろう!」
向ける方角を知らぬ感情は、すぐ側にいる京極堂に剥き出しの侭に向けられた。
彼は彼なりに心配をしており、何も出来やしない自分にジレンマすら感じているのだろう。
それが分かっているから京極堂も反論はしない。
「えぇ・・だから、その中でも善かった瞬間を何度も何度も繰り返して生きているのですよ。」
「どうにかしろ、京極!!この侭で善い訳がないだろう。良くない!この僕が許すものか!」
ギュッと握り締められた拳は、余程強く握られているのだろう。
指先は白くなり、掌には爪に痕を残していた。
「榎さん・・。榎さんは白川という教育実習生を憶えていますか?」
今、この状況には関係の無いと思われる名を出されて・・
多少、困惑ぎみの表情を浮かべるが、この男の事だと思い答える。
「あの高等部の頃に来た奴のことか?・・あの白川のことか?」
「えぇ。彼に珍しく関口君が慣れていたんですよ。」
奥歯にモノでも挟まった様な、すっきりしない物言いに
「それが今のこの状況と何が関係すると言うのだ。僕は関を呼び戻せと言っているんだ!」
と語気を荒げてみせるが、いつもの如し・・京極堂は全く動じる事がない。
そのまま、淡々と話し続ける。
「本当に珍しく。あの対人恐怖症の関口君が白川という男とは
補習を受ける事もできたんですよ。今考えると・・似ていたのかもしれませんね・・あの二人は。」
「何が言いたい。」
じっと見据える京極の表情からは何も見えやしない。こういう時は幾ら見ようとしたって
無駄な事は知ってる。感情も何もかもコントロールする。そういう男なのだ、京極とは・・。
* * * * * * * * * * * * *
「関口君、君・・何処へ行くんだい?」
彼には珍しく、全ての授業が明けた後だと言うのに寮には向かわずに
別の方向に歩き出していた。すると、少し顔を赤らめながら小さな声で
ごにょごにょ・・と何かを呟いた。
「・・その・・あの・・。こ、今度の試験・・落とせないから・・ほ、補習に・・。
白川先生が・・見てくれる・・らしいんだ・・。」
正直、驚いた。関口が自分以外に、しかも教師に補習として勉強を聞きにいくなど
今まで在り得なかったからだ。
「ちゅ、中善寺・・?」
何も言わない僕を困ったような、びくついたような表情で下から覗きこんでくる。
しばらく考えてから「・・僕も行っても構わないかい?」と口にする。
関口が断われる筈もないのを知りつつも、そう言った。案の定、彼は少し困った笑みを
浮かべると、あぁ・・と呟いた。
白川先生とは、今学期に入ってから大学の教育学部から来た教育実習生だった。
物腰が柔らかく線の細い、大人しい感じの彼を見ていると
あれで教師が務まるのだろうかと疑問を抱いたのは云うまでもないが、
まさか関口と話していたとは思いも寄らなかった。
「一体、いつの間にそんな約束をしたんだい?大体・・勉強位、僕だって見てやれる。
なんでまた白川先生に。君には珍しく相談でもしたのかい?」
言葉の端々に嫌味が滲み出てしまっている自信があった。だけど、今はそんな事に構ってられる程
心穏やかでもなければ、広い心とやらを持ち合わせてはいなかった。
矢継ぎ早に向けられた言葉にたじろぐ様子を見せて、
「だって、君は忙しそうだったから。それに・・白川先生は怖くないんだよ。」
「忙しいか、忙しくないかは君が決める事じゃないだろう。・・怖くない?それは僕に対する
当て付けかい?」
流石に少ししまったと思うが、もう遅い。酷く傷ついた表情を浮かべた関口は歩みを止めた。
「・・悪かったよ。もう、いいよ・・。」
力なく呟くと、関口はのろのろと歩き出した。掛ける言葉も見失い、ただぐっと押し黙った。
「もう一回、ここをやってみようか?」
穏やかな声が放課後の教室に響く。ここは特別棟で、科目別の教室しかないせいか、
本棟よりも静かだった。
「あ・・う〜・・ん・・と」
もごもごと口篭もり、躓くことを繰り返す関口に対して根気よく白川は付き合っていた。
「あぁ、ごめん。これは僕の間違いだ。ほら、印刷ミスだ。これじゃぁ・・解けやしないね。」
面目無さそうに苦笑を浮かべると、彼は関口に頭を下げた。それを見て反って関口が恐縮する。
その鼬ごっこは、見ているこっちがうんざりする位だ。この様子ならきっと僕自身が付いて
こなくても大丈夫だろうと考え直した。
ある程度の復習を終えると、僕たち二人はその場を後にした。
「それじゃぁ、また何かあったらおいでよ。」
そう言った彼に軽く会釈すると家路についた。
あれから、何回か関口は彼のところに聞きに行っているようだった。
僕自身も彼は嫌いではなかった。高等部の教師としてどうかと聞かれれば、それなりの答えも
あったが、彼個人の人格は特に気にする点などはなかったと思う。
だから、ある意味で安心していたのかもしれない。
だけど、問題はやはり起こった。
気が付くべきだったのだ。関口が慣れているという点に関して・・
それはある程度、関口自身が近付く事を許容していたという事に。
白川という男は元々、そんなに体の丈夫な人物ではなかったらしい。
その蒼白さは、病から来るところもあったようだ。
教育実習に来れた事自体が不思議な位だったのだ。
いつもの如く、関口と白川先生は放課後の補習をしていたらしい。
その日は朝から冷え込みが激しく温度も中々上がらなかった。
唯でさえ、冷える教室は夕日が落ちた頃には底冷えしていた。
「さて、今日はここまでだね。う〜ん、暗くなっちゃったから途中まで一緒に帰ろうか?」
「あ・・は、はい。」
机の上に広がったノートやら鉛筆を仕舞いながら返事をした関口の声は上擦っていた。
「じゃぁ、僕も支度してくるから昇降口で落ち合おうか。」
「はい。」
二人は特別棟を下りると、それぞれの教室へと分かれた。
夕日も落ち、辺りは暗さを増していた。寒さの所為で吐き出される息は白く浮かび上がった。
「待たせてしまったね・・本当に冷えるね。ゴホゴホ・・」
職員室から昇降口は近く、本来ならばあまり時間は掛からない筈なのだが、
予想よりも遅く白川は姿を現わした。その顔は何故だか、先程よりも血の気が失せて見えた。
「し、白川せんせ・・。風邪をひかれているんですか?」
「え、あぁ・・ごめんね。君に移しはしないから大丈夫だよ。」
そう言って、口元を覆うように襟巻きを深くする。
「や・・その、そういう意味じゃなくって・・暖かくしてゆっくり・・休んで下さい。」
「あぁ。そうさせて貰うよ、ありがとう。」
そう答えて微かに笑んだ彼の表情は酷く穏やかだった。
その後も、小さな咳を抑えるようにしていた。不安そうに関口が見やれば、「大丈夫だよ。」と
答えて、「他に分からなかった処はないかい?」と訊ね返してきた。
「今日はありがとうございました・・。僕はこっちなんで・・」
寮へ向かう二股路に差し掛かると、関口がおずおずと呟いた。
「・・あ・・うん。それじゃ・・・また。」
そう言って白川は顔を逸らした。一瞬だった。
だけど、見えたその横顔に苦痛の色が濃く現れていた。流石にそれは関口にも
伺い知る事が出来たのだった。
そう・・・。彼は倒れたのだ。
それも関口の目の前で・・。ふらり・・とゆっくりと。支えを失ったかの様に・・
壊れた人形のように・・・。
吐血して、倒れた彼。真っ赤な血が彼を地面を・・
そして駆け寄った関口のシャツを濡らした。
「白川先生!!」
静かな日没後の空に悲痛の叫び声が響いた。
関口の声に気が付いた近くにいた他の教員や生徒が集まってくる。
その騒ぎ声は僕のいた部屋にまで届いてきた。
騒ぎ立てる生徒達。走り回る教員。その中で・・呆然と立ち尽くす関口の姿が目に入った。
誰かが彼に声を掛ける前に素早く僕は彼に自分の上着を被せると、その腕を引っ張った。
彼は力なく引き寄せられた。
ぶつぶつ・・と呟く、途切れ途切れの言葉。
「しら・・か・・わ・・せんせぃが・・・しらかわ・・せん・・せいが・・・。」
「関口君。」
「あぁ・・血・・血だ・・。真っ赤だった・・・あぁ・・・・あぁ・・僕の・・所為だ・・」
汚れた関口の手を洗ってやると、肩を揺する。
「関口君。君の所為ではないよ。彼は元々、病気がちだったんだ。それを彼自身も、
それから学校側も承知だったんだよ。」
一瞬、戻ってきた瞳が僕を捉えた。再び、光を失うと、
「でも、でも・・・僕は何も出来やしなかったんだ・・・!!一番、近くにいたのにぃ〜・・」
頭を抱え込むかの様にして、その場に崩れ落ちる関口を支える。
「喩え、君が白川先生の病気を知っていたとしても何も出来やしないさ。君は医者でも
ないのだから。それは僕であっても同じ事だよ。」
それでも、尚言い縋る関口を宥めて「兎に角、着替えるんだ。話はそれからだよ。」と突き放した。
「僕があんな風に・・勉強を教えて貰いさえしなければ・・白川先生には負担にならなかったのに。」
素直に汚れたシャツを着替えた関口は再び口を開いた。
「それは違うよ。元々、勉強を見ると言ったのは白川先生自身だ。それに・・さっきも言ったがね、
彼は知っていたんだよ。自分の体調をね。現に彼の年齢から考えると、教育実習に来るには
一年ばかり遅い。だからと言って、彼の感じを見ていれば浪人する様なタイプではないだろう。
そう考えると、残るは留年した事になる。それも遊んで落としたなんて彼の気質から無いだろう。
・・自ずと、やも得ない理由によって留年したと考えられるんだ。あの様子だ・・。
残された可能性として一番高い確率は、きっと病気だろう。・・分かるだろ。
だから、君がそこまで気に病む事はないんだ。」
それは関口は納得させる詭弁に過ぎない事位、自分でも分かっていた。
だが、ここで関口を繋ぎ留めなければ・・・僕は後悔する。
ならば、どんな詭弁だろう厭わない。
「で、でも。」
「いいかい。じゃぁ聞くけど、彼の病気を知っていたら助ける事が君にできたのかい?
吐血された血を止めてやり、苦しそうに咳き込む彼の苦しみを和らげてやる事が
できたというのかい。」
嗜めるような物言いをすると、
「それは・・・」
関口の最後の言葉は、その抵抗に色を失くした。
「無理だろう・・。誰も君を責めはしないよ。」
静かな口調で言い包めてやると、力が抜けたかのように関口は座り込んだ。
「少し眠るといい。」
そういって、関口の頭に手をやると大人しく彼は頷いた。
* * * * * * * * * * * * *
人というのはあっけないものだ。白川先生は入院先の病院で息を引き取ったのだ。
僕らは葬儀に参列を済ますと、ゆっくりと寮に向かった。
帰路、僕らは無言だった。何も交わす言葉がなかった。
寮の部屋に戻った後も、関口は口を開こうとはしない。
思いつめたようなその横顔は、不意に僕を不安に掻き立てた。
関口にとって、初めての身近な人間の死の瞬間だったらしい。
つい此間まで、生きていて動き語っていた人物が・・その瞬間から動かなくなるのだ。
その存在全てが失われるのだ。残ったのは器だけ・・。
僕は、死と言うものは残されたモノが考えて・・そしてその存在、価値、理由・・・は
残されたものが折り合いを付けて、自分たちを納得させ・・収拾をつけることなんだと思う。
それには人によっては必要な時間が異なる。
そして、関口も例外を漏れることなく・・・時間が必要だったのかもしれない。
だが、それに耐えうるだけの精神力を彼は持っていなかったのだ。
「僕は・・・」
そう小さく呟いたきり、関口は塞ぎこんでしまったのだ。
どんなに声をかけようとも、反応しない関口の頬に触れる。眠る彼は、安らかな吐息をつく。
「関口君、本当に君って奴は・・。」
その夜中だっただろうか、眠っていた筈の彼が跳ね起きたのだ。
「うぅ・・。」
「関口君?」
声を掛け、座らせようと手をのばした途端に彼は部屋を飛び出したのだった。
「待ちたまえ!!」
僕の声なんて届きはしない。彼はあっと言う間に夜の闇の中へ消えていった。
Back to2 ★ Next to4
BGMby:遠来未来【夜蝶】